2019年05月01日

信濃橋

信濃橋は、西横堀川に架けられていた橋の一つである。西横堀川は、永瀬七郎右衛門によって開削されたと伝えられ、土佐堀川から道頓堀川にかけて大阪の中心部を南北に貫流する川で、その沿岸には種々の商家、なかでも材木商と瀬戸物商が軒をつらねていた。信濃橋は、古くは富田町橋(とみたまちばし)その後は問橋(といばし)と呼ばれ、元禄年間(1688〜1704)の記録に信濃の名がみられる(橋長13間1尺 約25.9m、幅員2間 約3.9m)。大正2年の市電の開通に伴い、三径間の単純鋼鈑桁の鉄橋に架け替えられた(橋長23.0m、幅員22.0m)。その後、阪神高速道路の建設が進められるなか、昭和39年から同46年にかけて西横堀川が埋め立てられ信濃橋はその姿を消した。

住所:大阪市中央区本町4丁目〜西区靭本町1丁目
アクセス:OsakaMetro四つ橋線本町駅28番出口およそ50m徒歩1分


DSCN6021.JPG

DSCN6025.JPG

DSCN6022.JPG

DSCN6024.JPG

DSCN6023.JPG



posted by かずぼん at 14:54| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月22日

川崎橋

川崎橋は、大阪市北区天満と都島区網島町を結ぶ大川に架かる自転車・歩行者専用斜張橋。 国土交通省が全国的に整備を進めている大規模自転車道のひとつ、北大阪サイクルライン(大阪市北区中之島〜大阪府吹田市万博記念公園)の大川を渡る地点に架かる。浪速の名橋50選選定橋。昭和53年度の土木学会田中賞を受賞。橋名は、かつて架橋地点にあった渡船「川崎渡」から採られている。また、昭和53年まで北区側の町名は川崎町・新川崎町だった。
○概要
形式2径間連続斜張橋
橋長:129.15m
支間長:87.50m + 40.65m
幅員:3.00m
橋脚:壁式鉄筋コンクリート
基礎:鋼管矢板井筒
着工:昭和50年(1975年)11月
完成:昭和53年(1978年)3月

○アクセス
JR東西線大阪城北詰駅
大阪市営バス京阪東口停留所

所在地:大阪府大阪市北区天満1丁目〜大阪府大阪市都島区網島町

DSCN3437.JPGDSCN3437.JPG



posted by かずぼん at 23:07| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大阪城新橋

本橋は、昭和58年10月8日から開催された大阪城築城400年祭の間に合わすべく、約10ヶ月という短縮工期で完成された。京橋ターミナルから、祭りの主要会場であった大阪城公園や大阪城ホールへ至るアクセス路であり、大阪城歩行者専用道整備の一環(第1期工事)として第二寝屋川に架設された橋である。また、災害時に北部方面から大阪城公園への避難路の役割も果たしている。工期短縮とともに、周辺景観との調和という課題を負っての設計と施工であった。右岸側の大阪ビジネスパーク(OBP)は、旧陸軍の砲兵工廠の跡地であり、かつて開高健の小説『日本三文オペラ』の舞台にもなった。現在は公園の中のオフィス街として、高層のビル群が建ち並んでいる。

橋長:63.0m
幅員:12.0m
形式:桁橋(連続桁)
完成:昭和58年
河川名:第二寝屋川
アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅1番出口およそ250m徒歩4分

J0010156.jpg

DSCN3521.JPG



posted by かずぼん at 23:05| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

本町橋

本町橋は、大阪府大阪市中央区の東横堀川に架かる本町通の橋、または、同橋東詰付近の町名。現在の橋は大正2年(1913年)に架け替えられたもので、大阪市内では現役最古の橋となっている。『浪速の名橋50選』に選定されている。

○概要・歴史
・大正以前
最初の橋は、豊臣秀吉が大坂城を築城し、東横堀川を開削したときまで遡る。年代は特定されていないが、天正13年(1585年)に東横堀川が開削されてからあまり経っていなかったと考えられている。大坂の陣(とくに冬の陣)の時は、戦略上の重要地点であったとされ、橋周辺で蜂須賀隊と塙直之が激突している。江戸時代になると、公儀橋として幕府による直接管理・維持がなされた。東詰に油問屋が集まり、、西詰に木綿問屋・呉服・古着屋が軒を連ね、大坂で最も賑わう地域とされた。享保9年(1724年)の「妙智焼け」とよばれる大火で本町橋をはじめ、いくつもの橋が焼失している。大火後、橋の北東側に西町奉行所が移転してきた。江戸時代のころの東横堀川の幅は現在よりも広く、本町橋も橋長が47.8mあったという。幅員は最初7.8mで、江戸時代後期には5.9mと幾分狭くなった。明治維新後、年代は特定されていないが、明治14年(1881年)までに鉄柱を持つ木橋に架け替えられた。当時は鉄橋はおろか、鉄柱木橋も貴重な存在であった。

○現在の橋
20世紀以降の大阪市電の敷設、都市計画事業による道路拡張にあわせて本町橋も大正2年(1913年)に鉄橋に架け替えられた。 三径間の2ヒンジアーチ橋で、下部は広くし、橋脚には石柱を模した飾りが付き、その上部はバルコニーとなっている。この橋は昭和57年(1982年)に大がかりな補修がされたが現役である。
橋長:46.5m
幅員:21.6m
形式:鋼アーチ(三径間2ヒンジアーチ)
完成:1913年(大正2年)

J0010476.jpg

J0010477.jpg



posted by かずぼん at 09:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

長柄橋

長柄橋は、淀川に架かるアーチ橋である。大阪市北区本庄東と大阪市東淀川区柴島とを結ぶ 全長656.4m、幅員20mの橋である。 大阪府道・京都府道14号大阪高槻京都線の一部である。浪速の名橋50選に選定されている。

○概要
長柄橋
種別-鋼道路橋
形式-バスケットハンドル型ニールセンローゼ他
橋長-655.60m 長柄小橋43.10m
支間-最大153.00m
幅員-20.00m
橋脚-壁式鉄筋コンクリート
基礎-ケーソン
着工-1973年(昭和48年)12月
完成-1983年(昭和58年)3月
工費-53億円

○長柄バイパス
長柄橋北詰め交差点の混雑を解消するため、この付近の交通の立体化を図ることとなった。経済的な見地から、バイパスの延長を短縮するため、その始点部を在来橋の中腹に結合させるユニークな形となる。
形式3径間連続曲線鋼床版箱桁他
橋長358.93m
幅員7.00m
着工1964年(昭和39年)9月
完成1981年(昭和56年)8月

○橋の沿革
1909年(明治42年)に、新淀川にかかる最初の橋として、官設鉄道東海道本線で1874年の阪神間開業以来使用されていたイギリス・ダーリントン・アイアン(Darlington Iron)社製PP-1形70フィート級錬鉄製3主構ポニーワーレントラス桁を2主構に組み替えた上で11連を転用し、この地に初代長柄橋が架設された。1936年(昭和11年)にゲルバー式鋼鈑桁による2代目長柄橋へと架け替えられた。第二次世界大戦末期には戦災に巻き込まれ、1945年6月7日には長柄橋南詰め付近で、アメリカ海軍艦載機の機銃掃射により400人余の死者を出す「長柄橋惨事」が起きた。被害者の大半は女性と子供であった。戦災で損傷した長柄橋は、補修工事などの上、戦後も引き続き使用された。戦後の交通量の増加により、従来の橋に継ぎ足す形で、1964年(昭和39年)に長柄バイパスを増設。現在の長柄橋は、1971年(昭和46年)から始まった淀川改修計画に基づき、1973年(昭和48年)から掛け替え工事が始まり、10年後の1983年(昭和58年)に完成した。

○古代の長柄橋
「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」と長柄橋の名は、古代より存在した。しかしこの長柄橋は、現在の場所とは異なる場所にあり(当時は川筋が現在とはかなり違った)、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされているが、正確な場所についてははっきりしない。

弘仁の時代に掛けられたこの橋は、川の中の島と島をつないだものだったようだが、約40年後の仁寿三年(853年)頃、水害によって廃絶。周辺がたびたび氾濫し川幅が広かったことや、9世紀後半が律令政治が弱体化した時期でもあったことで、杭だけを水面に残し中世を通じてついに再建されなかった。しかし、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった。和歌のほとんどは、水面にわずかに残った橋桁を詠んだものであり、貴族階級たちが没落した我が世と対比して、長柄橋を建立した律令時代の華やかさへの憧憬と願望をこめたものとなっている。たとえば、赤染衛門は次のように歌を詠んだ。

わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき

また、鎌倉時代の歌人藤原家隆は次の歌を残した。

君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん

貴族階級のこの意識に支えられて、長柄橋は「幻の名橋」と位置づけられ、能因法師が「長柄橋架設の際に出た」と称する鉋屑を秘蔵していて、貴族たちをうらやましがらせたという話や、後鳥羽上皇が橋柱の朽ち残ったもので文台を作らせ和歌所に置いた話など、いくつもの挿話が形成されている。民間での伝承では、長柄橋の人柱に関する伝説が残っている。これは南北朝期にはすでに東国方面まで知られていたもので、神道集には次のような説話が記されている。むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、「袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう」とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は「ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし」という歌を残して淀川に身を投じてしまった。神道集のこの説話は大坂地方の人々の間に広く語り継がれ、若干変形した形で近世の随筆類に散見されることとなった。よく知られたものに、以下のようなものがある。推古天皇の時代(飛鳥時代)、長柄橋の架橋は難工事で、人柱を立てることになった。垂水(現在の吹田市付近)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「袴(はかま)に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある袴をはいていたため、巌氏が人柱にされた。巌氏の娘は父親が人柱になったショックで口をきかなくなった。北河内に嫁いだが、一言も口を利かないので実家に帰されることになった。夫とともに垂水に向かっている途中、禁野の里(現在の枚方市付近)にさしかかると一羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。それを見た巌氏の娘は「ものいわじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだ。妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、以後仲良く暮らした。現在の大阪市淀川区東三国に、古代長柄橋の人柱碑が残っている。長柄人柱伝説は、「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば撃たれまい」という「口は災いのもと」という意味のことわざの由来とされている。

○祈念像
橋の南詰に「明倫観世音菩薩」の像が建立されている。碑には昭和20年6月7日にこの橋畔で死んだ空襲犠牲者と淀川水難犠牲者の冥福を祈るためと記されている。

J0010189.jpg

J0010187.jpg

J0010202.jpg

J0010203.jpg



posted by かずぼん at 17:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

飛翔橋

飛翔橋は、大阪府大阪市都島区と北区の間の大川(旧淀川)に架かる歩行者専用橋。

○概要
大川を橋脚なしで越えるためアーチスパンが長くなり、さらに橋の西側の一部が阪神高速道路守口線の下をくぐる関係でアーチライズ比(高さ/長さの比)が小さくなる構造的な制限を受けたため、アダムスキー型円盤のようなシルエットを持つ二重アーチ構造になっている。飛翔橋の名称は、「UFOを思わせ、どこかへ飛び立つようなイメージ」から名付けられたとされる。
主要諸元橋  長:103.55m(主橋梁部)
幅員:4.00m
橋種:ニールセンローゼ(二重アーチ構造、逆T形鉄筋鋼コンクリート補剛桁)
竣工年月:1984年(昭和59年)10月
所在地:都島区善源寺町1丁目-北区長柄東1丁目

[ここに地図が表示されます]


J0010210.jpg

J0010212.jpg

J0010213.jpg

J0010211.jpg

J0010214.jpg



posted by かずぼん at 16:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中之島ガーデンブリッジ

橋長:77.50m
幅員:25.00m
橋種:2径間連続鋼床版箱桁橋、
逆T形鉄筋コンクリート他
完成:平成2年
大阪市北区

J0011048.JPG

J0011049.JPG

J0011052.JPG

J0011053.JPG

J0011050.JPG

J0011051.JPG

J0011054.JPG

J0011055.JPG

J0011056.JPG

J0011059.JPG

J0011060.JPG

J0011061.JPG



posted by かずぼん at 14:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月07日

大黒橋

黒橋は、大阪府大阪市中央区にある、道頓堀川に架かる橋。島之内と道頓堀(商店街)を結ぶ西端の橋で、深里橋(四つ橋筋)の上流100mの位置に架かる。

○歴史・概要
大黒橋が初めて架けられたのは、1615年(元和元年)に道頓堀川が開削されてから間もない時期で、江戸時代初期の記録には、橋長42.7m、幅員2.4mの木橋であったとされている。当時の地図には「なんば橋」もしくは「下橋」と記載されており、「大黒橋」の名称が使われているものは、1703年(元禄16年)発行の『公私要覧』が最古であり、この時期前後に定着したものとみられる。大黒橋の名称は、木津大国神社(敷津松之宮)の参道に由来する。なお、現在当橋の上流側に架かる新戎橋と道頓堀橋はどちらも近代以降の架橋で、江戸時代を通じて当橋上流側の橋は今宮戎神社の参道に由来する戎橋だった。木津大国神社の参道はまた、西成郡難波村と木津村の集落(現・浪速区元町・敷津西・大国)へ通じる道でもあった。難波村も木津村も、畑場八か村と呼ばれていた都市近郊型の畑作の村に該当し、当橋付近には青物の朝市がよく立った。大黒橋をはじめとする畑場八か村の青物市は、公設の天満青物市場との対立を繰り返しながら、やがて木津卸売市場のルーツとなる難波木津市場の開設につながっていった。1854年(嘉永7年)の安政南海地震では津波が発生し、遡上してきた船が横転し大黒橋で川をせき止め、河口から押し流されてきたものが岸に乗り上げたため、川岸に作った多くの家屋が壊されたと記録されている。近年まで現存していた鉄筋コンクリートのアーチ橋は、1930年(昭和5年)に架設されたもので、1車線車道と両側歩道の構造になっていた。その翌年には橋東側に河川浄化のための可動堰が設置され、その上部を歩行者専用道として利用した。可動堰は、橋がコンクリート製なのに対して、煉瓦で装飾されており、1988年(昭和63年)の改装工事にはベンチや植樹枡が設置されるなどの整備が行われた。その後、劣化や損傷等の老朽化、耐震性の問題により、2013年(平成25年)4月まで行われた道頓堀川水辺整備事業の遊歩道とんぼりリバーウォーク設置工事に合わせて鋼ポータルラーメン橋に架け替えられた。これは桁下高さや航路幅、河岸遊歩道の建築限界などを確保するために採用された。

DSCN1210.JPG

DSCN1211.JPG

DSCN1212.JPG

DSCN1213.JPG



posted by かずぼん at 17:00| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

天満橋

天満橋は、大阪市の大川に架けられた橋および同市北区の地名、天満橋南詰周辺の地域名。
○天満橋(橋梁)
天満橋は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいる。大阪では珍しい2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。大阪市営地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過している。

○歴史
江戸時代には公儀橋に指定され、幕府により直轄管理されていた。江戸時代を通じて架橋地点は現在地より一筋東であり、その北詰の筋が天満橋筋と呼ばれていた。1771年(明和8年)に寝屋川・鯰江川との合流地点の逆流を防止するために将棊島と呼ばれる堤防が築かれ、以降の天満橋は将棊島を跨ぐ橋となった。1878年(明治11年)に新しい木橋が谷町筋と空心町筋(現在天満橋筋と呼ばれる筋)を結ぶ位置に架け替えられた。しかし、木橋は1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。復旧に際して鉄橋に架け替えられた。当時の主要材料にはドイツから輸入されたものが用いられたが、装飾品等には日本製のものが用いられた。鉄橋は50年近く続いたが、路面電車(大阪市電)の往来による揺れが問題化したため、1935年(昭和10年)に耐震構造をもった現在の橋に架け替えられた。この間、1909年(明治42年)の淀川改修工事によって将棊島が姿を消した。1970年(昭和45年)に天満橋交差点(土佐堀通)の渋滞緩和のために跨道橋が建設されたが、北側はそのまま大川を越えて北岸で地上に下りる構造となった。大川上は在来の天満橋の橋脚上に柱を立てて橋桁を重ねる構造をとった。1989年(平成元年)に旧橋(下層)部が改装された。

○現橋の要目
構造形式-カンチレバー式プレートガーダー
橋長-151.0m
幅員-19.0m
中央径間-61.0m
開通-1935年(昭和10年)12月25日

J0010185.JPG

J0010184.JPG

J0010186.JPG

J0010187.JPG

J0010188.JPG



ラベル:大阪府 大阪市
posted by かずぼん at 13:17| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

淀屋橋

淀屋橋は、大阪府大阪市を流れる土佐堀川に架かる、御堂筋(国道25号)の橋。または、橋梁付近の地域名。大阪市北区中之島1丁目と中央区北浜3丁目を結ぶ。国の重要文化財に指定されている。

○概要
元々は土佐堀川に架かる橋の名前だが、その後地下鉄御堂筋線と京阪電車の駅名(淀屋橋駅)とされたことから、駅周辺および中之島東部一帯の地域名にもなっている。中之島には大阪市役所、日本銀行大阪支店があるほか、船場側には日本生命本社や住友村、大阪市の関係機関などのビルが立ち並び、大阪の代表的なオフィス街である。また、橋の南側に位置する淀屋橋交差点に面した土地は、大阪市の中でも非常に高水準の地価となっている(右上側写真の右側、みずほ銀行の入る日土地ビルが建っている場所)。土佐堀川に架かるアーチ型の淀屋橋をはじめ、日本銀行、市役所、中之島図書館、中央公会堂の建物など、景観についても条例などによって規制され維持されている。また、2000年代現在は緩和(50メートル→60-70メートル)されているが、中央区(船場)側の御堂筋沿いのビルの高さは、かつては31メートルに制限されていたため、建物の高さが綺麗に揃ったビル群を見ることができる。その後、大阪市が高さ規制のさらなる緩和を表明。それを受け、淀屋橋交差点南東および南西の区画に超高層ツインビルを建設する計画があったが、着工には至っていない。

○歴史
橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。現在の橋は1935年(昭和10年)に御堂筋拡幅工事の一環として完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋である。淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたものである。パリのセーヌ川を参考に景観に配慮したデザインは、一部補修された以外は懸架された当時のままで、市の第一次都市計画事業の目指すところを後世に伝えている。2008年(平成20年)には、「大江橋及び淀屋橋」として、コンクリート橋としては珍しく重要文化財に指定された。橋の近くには「淀屋橋港」があり、水上バス「アクアライナー」が就航している。

淀屋橋01.JPG

J0011058.JPG

淀屋橋03.JPG

淀屋橋02.JPG



ラベル:大阪府 大阪市
posted by かずぼん at 11:37| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする